単なる普通の変な人

よく変と言われるけど私は普通の人です。アイコンはあずらいちさん作画。

【子供から大人まで】知的好奇心を満たす事が大事。

アルバイト先で研修を受けておりもうすぐ実務に入るのですが、私は暗記が苦手なので理解を深める事で暗記力不足を補っています。

 

仕事の知識はどんな事でも理解を深めると楽しいので、積極的にどんどん吸収する様にしているのですが、その分疑問も沢山発生します。

一旦自分の中に疑問が芽生えてしまうと、それがレアケースだと分かっていても確認せずにはいられない性分で、「万が一こうなった場合は…」という形で質問を投げかける事を堪えられません。レアケースでない場合は当たり前に即質問投げです。

 

私は子供の頃からそうで、質問を投げては母を困らせていました。

母を混乱させる一番の理由が、私が、「全てに於いてそうではない」という事です。興味のある事にしか知的好奇心を発揮せず、興味の無い事には全く疑問を抱かない。もう、興味の無い事はほぼ無視です。それなのに、興味のある事は母が「それ、必要?!」と思う事まで深く掘り下げて知りたがる。

 

そんな子供でしたので、母はどちらの私に重きを置いて私と接したら良いか分からず、結果的に「適当な言葉で逃げる」事を選択しました。母を責められません。何故なら、母は「全てに於いて私と向かい合う事を過去に試みた」からです。母親だから、子供を教育しないといけないから、頑張った時期もあったのです。

 

残念な事に、私はその頃はまだ、自分と自分以外の人の違いが全く分からなかった為、言葉で自分の気持ちを母に説明する事が出来ず、母とは価値観が全く違う為に理解し合う事も出来なかったのです。

 

今は説明してます。母はそれを聞く度に愕然としてます。

 

そんな風に母から適当にあしらわれる事に慣れていたある日、私の脳内を猛烈にアドレナリンが駆け巡る出来事がありました。

 

多分小学生だったと思うのですが、家族で母実家(大阪)に帰省した際、京都観光に出掛けて、何故か京都で「ぼてじゅう」(お好み焼き屋さん)に入りました。東京の「ぼてじゅう」は凄く不味いので私は嫌だったのですが、「ここは京都だから大丈夫」という何の根拠にもならない理由で店内に誘われました。

カウンター(鉄板前)で一列に並んで座り、それぞれが好きなお好み焼きを頼む中、私は「ねぎ焼き」という物を見付け、すぐに店員のお姉さんに質問しました。東京ではまだ、ねぎ焼きは無かったんです。

私「ねぎ焼きって何ですか?」

お姉さん「お好み焼きにはキャベツが入ってるやろ?そのキャベツの代わりにねぎを入れてるんよ」

私「ねぎを…?美味しいのかなぁ?」

(ここで両親動揺。私を制止したかったと思われる。)

お姉さん「食べてみたらええんちゃう?美味しいで」

私「じゃあ私はねぎ焼き」

(両親とりあえず安堵。)

 

それぞれのお好み焼きが焼かれる中、私のねぎ焼きも焼かれ始めました。

 

ねぎ焼きの最後にソースを塗る…と私は思ってたんですが、お姉さんはソースとはまた別の容器を取り出しました。

 

私「それ、何ですか?」

お姉さん「醤油よ」

私「えぇー、お好み焼きはソースじゃないんですか?」

(両親、また動揺。)

私は悪意があった訳じゃありません。単純に、「お好み焼きはソースで食べる」のが私のスタンダードだったので、疑問に思ったのです。まぁ、お好み焼きじゃなくてねぎ焼きなんだけども。

 

両親が動揺して私を制止しようとするとお姉さんは、「ほんなら、ねぎ焼きの半分にソース、半分に醤油を塗ったるから、食べ比べてみ?」と言ってくれました。

そして食べ比べる私。

私「醤油の方が合う!」

お姉さんはニンマリして、「せやろ〜?」と。

 

この時、私の知的好奇心が満たされてアドレナリンが大量に放出されました。

 

勉強とは全く関係ない例だけど、子供の「なぜなに」に向き合ってあげると子供は達成感を得て伸びるのではないかなぁと、この出来事を思い出しながら考えてました。

 

知的好奇心を満たすと伸びるというのは大人になった今でも変わらないので、人間っていつくまで伸び代あるんだろ?とも思ったりしてます。