単なる普通の変な人

よく変と言われるけど私は普通の人です。アイコンはあずらいちさん作画。

【完了】圧倒的なものがあると、想定を覆す事が出来る、という経験を思い出した。

今回書く事は、凄く小さな自慢と共に、人生は何とかなるもんだ、と思った私の経験談です。

 

私は一浪して四年制の三流大学国文学科に入学しました。通っていた高校も大学へ内部進学が出来た上に、内部進学可能な大学は国文学の蔵書が都内一豊富とも言われる図書館を所有していた為、高校の同級生には「何故内部進学しなかったのか」とかなりしつこく聞かれましたが、そこは些細な理由があるのだよ。大した理由ではないのでここでは割愛。

 

大学の講義には必修科目というものがあります。必修科目は必ず単位を取らないと卒業出来ません。大学によっては進級出来なかったり、2年と3年の間に大きな壁があったり、様々みたいですね。

 

私が大学1年生の時、必修科目はかなり多く、その中の多くが「出席して試験を受けさえすればCは取れる」というものでした。

「ABC」は「優良可」みたいなもので、Aが一番良い成績で、Cはギリギリだけど可って感じです。Dは不可であり単位が取得出来ません。Xは試験を受けないと付けられる成績で、Xがついた講義は2年以降に再履修出来ないのです。だから必修に関しては、出席日数が足りないと分かりきってても試験は受けざるを得ませんでした。必修だから、講義を受けられなくなってしまうと困ります。

(実際のところ、本当に再履修が不可能なのかどうかは知りません。本当なら永遠に卒業出来ないし。)

 

その、出席さえしてれば単位が取れると言われている必修の中に、常に1限か5限かに設定されている講義がありました。「源氏物語」を研究してる教授だったので、もちろん講義内容は源氏物語

私は中学から大学に入るまで「受験に必要」という思い込みにより、源氏物語を読みこんでいました。今考えると、源氏物語はメジャー過ぎてほとんど試験には出なかったです。源氏物語はフィクションで恋愛小説だから、古典に慣れるには良い作品だと思われてたんですかね…。

 

まぁそんな訳で、大学1年生の時には源氏物語の事はほとんど頭に入っていた為、教授の講義は非常に怠く、寝ないで受けるのが精一杯。その内に講義に出席さえしなくなりました。

でもその教授の講義は例の「出席さえしてれば単位が取れる講義」。何とかギリギリ出席日数が足りる様にしなければなぁ…と思いつつ、結局出席は足りないまま学年末試験を迎えました。

 

*一応言っておくと、今は特定の章以外はほとんど忘れました、源氏物語。「末摘花」だけは多分一生忘れないな。

 

「単位が取れない事が分かりつつ試験受けるのかぁ…」と思いながら試験用紙を見ると、試験は「源氏物語」の「浮舟」に特化した設問で、論述するタイプの試験だったんです。

 

「おっと…『浮舟』?マジか。書きたい事沢山あんぜ」とちょっとテンションが上がった私は、設問に答える形で試験用紙の裏までびっちりと文字で埋め尽くし、自分の「浮舟」に関する疑問や考えを書き綴りました。

 

試験が終わって友人と話したら、私の書いた事は教授の説明とは真反対、つまり真っ向から反論する形である事が分かりました。

私が出席してない時に説明があった模様で。

 

「あー、ヤバイ。こりゃヤバイ。万が一の奇跡で単位取れるかと思ったけど、その可能性もなくなったな」と私は覚悟を決めたのですが、なんとその講義の成績は「A」でした。

私の不登校具合を知っている友人達は大体Bだった為に大変文句を言われましたよ。

 

その時に初めて、大学で勉強する意味を知った気がします。

 

高校までは、教科書通りに回答する事を求められました。例えば英語。「以下の日本語を英語にせよ」という設問があった場合、前回の試験から今回の試験の間に習った規定の回答をしないと、×または△が付けられ、点数が引かれました。私の回答が文法的にも内容的にも問題が無く、正解の1つだったとしても、規定の回答ではない為に点数が引かれてしまうのです。

 

現国や古典も同じで、回答には色々な可能性があるけれど、授業で習った通りの回答をしなければ×又は△。

 

私にとって高校までの試験というのは全ての科目が暗記で、かなり苦しいものでしたし、間違ってはいないのに点数を引かれる事に不満がありました。

 

でも、大学は違った。

例え自分の考えが教授の意見と真っ向から反論するものであったとしても、その根拠が明確であればそれは「1つの可能性」として認められ、「1つの意見」として評価されるのです。

もちろん、根拠がないと駄目ですが。

 

大学の教授は高校までの教師と違い、「研究者」です。根拠と共に提示される新たな見解は大歓迎なのです。高校までに抱いていた疑問が解き放たれる気がしました。

 

自分の考えを、根拠と共に提示して良いんだ!

 

高校までは、「なぜそうなるのか」「なぜこの回答が間違いなのか」といった疑問を投げると、教師は露骨に嫌な顔をしました。そして投げやりに採点見直しをするか、適当な事を言って逃げてばかりでした。

でも大学は違う。これこそ勉強であると強く感じました。

 

…と熱弁をふるっておきながら、あるきっかけで私のこの熱意は2年までで終わってしまうのですが。

 

とは言え、この経験が私の自信になった事は確かです。社会人になっても、この経験はとても役に立ったし支えにもなりました。

イエスマンにならないといけない時には全く役に立ちませんけども、駄目元でも根拠と共に提示してみるという方法を試す力がつきました。根拠があるので曖昧にもならないし、暗記でもないし、理解力も深められるし、自分に合った方法だと認識してます。

 

タイトルは「圧倒的な『もの』がある」と濁しましたが、圧倒的な「力」でもないし「学力」でもないし、そもそも誇大タイトルでしたね。すみません。

正確には、「根拠と共に意見を述べれば、想定を覆す事ができる」ですね。変えないけども。

 

ただ、人(相手)によっては嫌がられるかも。

人と接する時にしつこくなりがち。理屈っぽくなりがち。バイトの研修や、獣医さんとの話において、私が納得いくまで質問をしてしまいます。例えそれが極論であったり極少数例であったとしても、不安があると確認してしまいます。幸い、全て答えてくれるのでとてもありがたいのですが、過去にこれで嫌がられた事もありました。

 

自分がどうあるべきなのかは自分が決める事なので私はこれで良いと思っていますが、当たり前に違う考え方の人を否定するつもりもないです。

1つでも自信の糧になると、まあまあ生きていけるなって思って書いてみました。

 

因みに「国文学科って社会に出てもなんの役にも立たないよね」とよく言われます。はい、私もそう思います。

 

いーんです!(川平慈英